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観光マップ

  • 上富田タウンマップ(飲食・宿泊・他情報多数)

  • 上富田町観光マップ

上富田町の観光情報

  • 堀製菓

    創業は昭和39年。「季節のフルーツ大福シリーズ」は、いちごやトマト、八朔などその種類は多様。
    添加物は使用せず、求肥は手作業で作られています。
    大きなサイズの大福が増えていく中、子どもでも食べやすいようにとの想いを込め、ひと手間かけて一口で食べられるサイズに仕上げています。
    ついつい食べすぎてしまう人も多いとか。

    飲食

  • 三宝寺

    上富田町岩田の三宝寺は(日本の禅宗の1つ)であるが、この寺の一隅に立像の阿弥陀如来がまつられています。
    昔、岩田の立平という所に善兵衛という百姓がいました。中年すぎから仏像修行を志し、家督をこどもにゆずって自分は六十六部になり、諸国の寺々を回っていました。あるとき、(現在の鳥取県の西半部)の高尾山というところで日が暮れ、宿を探していたところ、一軒の荒れ果てた小さなお堂を見つけ、これ幸いと一夜の宿りをすることになりました。
    旅の疲れか、ついうとうとしていると、夜中に「これ、善兵衛、善兵衛」と起こす者がいます。「わしはなあ、このお堂に祀られている慈覚大師作の阿弥陀仏である。住み家のお堂もこんなに傷んでいるのに誰もかまってくれない。おまえの国は温い住みよい国だという、どうかわしを、おまえの国へ連れて行ってくれ」という声にハッと我にかえると、夢でした。不思議なことがあるものだと、翌朝明るくなって辺りを見回すと、ゆうべ夢に出てきた阿弥陀様とそっくりな仏像が、ほこりにまみれて立っています。善兵衛はあまりの不思議にびっくりしたが、これこそ正夢であろうと大いに喜び、きっと夢に託して私に語りかけてくれたのに違いないと思いました。しかし、背負ってお連れしようとすると、阿弥陀様はうそのように軽いのです。背丈一メートルもある木像となると、相当重いのを覚悟していたのに、あまりの軽さに、いよいよこれはただごとではない、これは阿弥陀様が私に連れて行ってくれとの、たっての望みに違いない、と、一層信念を募らせて帰国の途につきました。
    しかし善兵衛には、まだ筑前博多近くの観世音寺へ詣りたいという念願がありました。そこで姫路近くの室津から便船で九州へ渡り、観世音寺の運照律師の許へ参じてこの阿弥陀仏のことを細かく物語りました。感動した律師からは授記をもらうことができました。
    善兵衛は国許へ帰ってから、自分の家のかたわらへ仏堂を建て、朝夕ねんごろ供養を営んできました。その後、明治の中頃、子孫が北海道へ移住したため、この阿弥陀仏を菩提寺である三宝寺へ移したといいます。
    後年牛の守り仏として、近在の博労(牛馬の仲買人)やお百姓から信仰されるようになり、牛の絵馬を奉納する者が多かったが、今では牛の飼育も少ないので絵馬も少なくなりました。
    善兵衛は法号を本誉浄源大徳といい、元禄から宝永の頃へかけて活動した人であったといいます。北海道へ渡った子孫は後再びこの地に帰り、家業は栄え、信仰の厚い一家として信用されています。

    <熊野文庫より引用>

    観光

  • 春日神社

    住古大和(奈良)の春日四所大明神を勧請したと伝え、領主山本氏のとき氏神としていたという。
    江戸時代以降は、市ノ瀬村の産土神。
    社名は、春日大明神または春日社と呼ばれ崇敬された。
    明治元年、春日神社と改称し(若宮神社・日吉神社・熊野神社)3社を合祀して境内神社とした。
    明治4年11月(任田辺県)郷社に付せられたが、同年末、田辺県を廃して和歌山県に併合されたことと「郷社定則」に基いて、同6年4月村社に列せられた。
    同8年、社寺境内外区画取調により910坪(旧境内地)が上知となる。
    同22年8月、大水害で神庫・中門・社務所など流失倒壊した。
    今後の防備対策として、翌23年4月に御旅所の厳島神社を合祀し、本殿敷地を3尺高くし、再建には30年2月に中門、33年に社務所を完成した。
    同42年、一村一社の神社合祀から村内の小社(畑の厳島神社・大芝の厳島神社・下ノ岡の地主神社・中ノ岡の稲荷神社・宮ノ尾の地主神社・両平野の大神社・同天神社・小山の日神社・汗川の厳島神社・後代の金刀比羅神社・根皆田の八坂神社)11社を合祀した。
    同44年11月、神饌幣帛料供進社に指定。
    大正3年2月、会計法適用社に指定された。
    昭和33年、字宮の新殿を新築した。
    同26年9月、第二室戸台風の害を受け、これを機会に屋根を銅板葺に替えた。
    昭和44年、山本貞雄氏の寄贈に依り神輿が新装なり、神庫を完成された。
    同55年、この二の殿屋根葺替〈文政2(1820)年に銅板で葺かれていた〉。
    同60年、奥行2m、長さ15mの大幣殿を新築した。
    同61年9月、江戸期のものと思われる神鹿(白鹿)を修復した。
    同62年、境内社の厳島神社・若宮神社・熊野神社と日吉神社の3神殿を造営した。
    平成3年11月4日、ちょうや竣工。
    平成4年10月、大駐車場完成。
    (例祭)
    享保9(1725)年の古文書弁財天祭祀輪番記に「夫辨財天者擁護於万物之善神也干茲紀伊州牟婁郡櫟原荘一瀬村前川蓬島之弁天宮云云」と記されている。
    此の蓬島は、明治22年8月の大水害に流失しその影はないが、その附近の川原を御旅所と選定めて、例祭に神輿渡御御神事が行われている所以である。
    御花篭。
    三筒の目張り篭に赤白緑の布を掛け、松竹梅の枝及び萱、造花を刺し立てる。
    農作物の豊作を祈る。
    之をかついで渡御行列に参加する。
    御篭持。
    富田川の北岸、南岸両地区より、1歳未満の男の子を1名づつ選び、母親は子供を、父親は篭をかついで渡御行列に参加する。
    稚児行列。
    満6才児有志が参列する。
    神賑行事(奉納芝居)。
    芝居小屋のことを昔から帳屋とよんでいる。
    本殿の正中の延長が帳屋の真中である。
    芝居のはじまりは明らかでないが、大古からうけ継がれている。
    現在は青年等が中心となって、お祭り1ヶ月前から練習に励み、10月12日の宵まつり、13日の2夜に奉納される。

    観光

  • 常喜山 成道寺

    成道寺は下鮎川(加茂)にあって山号を常喜山といい、町域の東端にある臨済宗妙心寺派の寺院で、本尊は釈迦牟尼仏である。
    当寺の由緒の源になっている寛文六年(1666)の「寺院改」([宇井文書])によると、

     禅宗関山派 常吉山成道寺 鮎川村 創営之時代知不申候、八十年以来代々禅宗住持仕来候、在所卜程隔候ユヘ六年以前在所之内ヘ引申候、古之寺地ハ年貢地、只今ハ山ヘ引申故寺内年貢無之候

     と記されている。創建の年代や由緒等の詳しいことは不明であるが、当寺の棟札によると、最初寺院は字寺平(大塔村鮎川)にありしを、寛永四年(1627)に字加茂に移し、同年八月十三日に上棟を挙行したとある。(『鮎川村郷土誌稿本』参照)また本堂裏の墓地内(松田家墓地)に、寛永八年(1631)、寛永九年、慶安三年銘の一石五輪塔が祀られていることなどから、寛永年間には寺観が整っていたと推察することができる。また古くは山号を常吉山といわれていたが後に常喜山と改められたことがわかる。

         「上富田町史 史料編下より」

    観光

  • 菓舗 多加美(たかみ)

    大手菓子企業で経験を積んだ店主が、昭和56年に独立して構えた和菓子店。
    当初から酒まんじゅうをメインに販売している。
    白くやわらかな生地に包まれたあんこは、こしあんと白あんの独自配合。
    口に入れれば、日本酒の風味がパッと弾けるように広がるが、余韻なくするりと消えていく。
    その繊細な味は評判を呼び、口コミで来店する人が大半を占める。

    飲食

  • お食事 福の神

    うどん・そばは約10種類、定食は約7種類を用意。定食は、焼肉定食や天ぷら定食など定番メニューだけでなく、山菜や天然の刺し身など紀南の恵みがメインの定食もある。25名まで利用できる座敷席もあり、予算に応じて宴会料理も用意できる。
    いなり寿司は、店主が京都の老舗料理店で修業を積んだこだわりの味を提供。大きく、手に持てばどっしりとした重さが感じられる。こだわりの酢を混ぜたシャリは艶やかでふっくら。揚げはダシをたっぷり含んでいて、口に入れればじゅわっと甘い汁が染み出す。ほのかなユズの香りも爽やかで、最後まで食べ飽きない。
    「福を招く」と言われるいなり寿司は手土産や祝いの場にも最適。持ち帰り用は4個入・7個入・9個入があり、箱に入れ包装をして販売。冷凍での地方発送も対応できる。

    和食