大手菓子企業で経験を積んだ店主が、昭和56年に独立して構えた和菓子店。
当初から酒まんじゅうをメインに販売している。
白くやわらかな生地に包まれたあんこは、こしあんと白あんの独自配合。
口に入れれば、日本酒の風味がパッと弾けるように広がるが、余韻なくするりと消えていく。
その繊細な味は評判を呼び、口コミで来店する人が大半を占める。
飲食
川が荒れても流されない様に手すりのない橋、潜水橋は地域の方にとっては重要な移動道路ですが渡るととても楽しいです。
特に上富田町の富田川付近は世界遺産八上王子跡と稲葉根王子跡があり、古き良き情景を感じる景観は日本人なら誰もが癒やされる事間違いなし。
上富田にはここ山王橋ともう一つ畑山橋という潜水橋もあり、ゆる旅にオススメのスポットです。
観光
Grandma’s Garden Kamitonda
(グランマズガーデンカミトンダ)
1日4組限定のキャンプ場
周りがいきなりキャンプブームに..
キャンプ場も賑わいまたそれも楽しかったりする
そんな中で、ちょっと静かに森の中で自分自身の時間を大切に過ごされたい
そんなキャンパーさんにGGKで時間を使っていただけたらなと
自然を存分に感じれる空間をイメージし準備をしてきました。
自然と一体化した空間を楽しんでいただければと思います。
宿泊
古代より熊野古道を歩く際には、川では水垢離をして、自分の体や精神を清めながら熊野詣をしておりました。キャンプ場のある上富田町市ノ瀬地区には「一番目の瀬」として熊野の入り口とされていることから、利用者の皆様の不安が和らぎ、またパワースポットとしてご利用いただけるように「MIZUGORI CAMP」とさせていただきました。
観光
上富田町岩田の三宝寺は(日本の禅宗の1つ)であるが、この寺の一隅に立像の阿弥陀如来がまつられています。
昔、岩田の立平という所に善兵衛という百姓がいました。中年すぎから仏像修行を志し、家督をこどもにゆずって自分は六十六部になり、諸国の寺々を回っていました。あるとき、(現在の鳥取県の西半部)の高尾山というところで日が暮れ、宿を探していたところ、一軒の荒れ果てた小さなお堂を見つけ、これ幸いと一夜の宿りをすることになりました。
旅の疲れか、ついうとうとしていると、夜中に「これ、善兵衛、善兵衛」と起こす者がいます。「わしはなあ、このお堂に祀られている慈覚大師作の阿弥陀仏である。住み家のお堂もこんなに傷んでいるのに誰もかまってくれない。おまえの国は温い住みよい国だという、どうかわしを、おまえの国へ連れて行ってくれ」という声にハッと我にかえると、夢でした。不思議なことがあるものだと、翌朝明るくなって辺りを見回すと、ゆうべ夢に出てきた阿弥陀様とそっくりな仏像が、ほこりにまみれて立っています。善兵衛はあまりの不思議にびっくりしたが、これこそ正夢であろうと大いに喜び、きっと夢に託して私に語りかけてくれたのに違いないと思いました。しかし、背負ってお連れしようとすると、阿弥陀様はうそのように軽いのです。背丈一メートルもある木像となると、相当重いのを覚悟していたのに、あまりの軽さに、いよいよこれはただごとではない、これは阿弥陀様が私に連れて行ってくれとの、たっての望みに違いない、と、一層信念を募らせて帰国の途につきました。
しかし善兵衛には、まだ筑前博多近くの観世音寺へ詣りたいという念願がありました。そこで姫路近くの室津から便船で九州へ渡り、観世音寺の運照律師の許へ参じてこの阿弥陀仏のことを細かく物語りました。感動した律師からは授記をもらうことができました。
善兵衛は国許へ帰ってから、自分の家のかたわらへ仏堂を建て、朝夕ねんごろ供養を営んできました。その後、明治の中頃、子孫が北海道へ移住したため、この阿弥陀仏を菩提寺である三宝寺へ移したといいます。
後年牛の守り仏として、近在の博労(牛馬の仲買人)やお百姓から信仰されるようになり、牛の絵馬を奉納する者が多かったが、今では牛の飼育も少ないので絵馬も少なくなりました。
善兵衛は法号を本誉浄源大徳といい、元禄から宝永の頃へかけて活動した人であったといいます。北海道へ渡った子孫は後再びこの地に帰り、家業は栄え、信仰の厚い一家として信用されています。
<熊野文庫より引用>
観光
成道寺は下鮎川(加茂)にあって山号を常喜山といい、町域の東端にある臨済宗妙心寺派の寺院で、本尊は釈迦牟尼仏である。
当寺の由緒の源になっている寛文六年(1666)の「寺院改」([宇井文書])によると、
禅宗関山派 常吉山成道寺 鮎川村 創営之時代知不申候、八十年以来代々禅宗住持仕来候、在所卜程隔候ユヘ六年以前在所之内ヘ引申候、古之寺地ハ年貢地、只今ハ山ヘ引申故寺内年貢無之候
と記されている。創建の年代や由緒等の詳しいことは不明であるが、当寺の棟札によると、最初寺院は字寺平(大塔村鮎川)にありしを、寛永四年(1627)に字加茂に移し、同年八月十三日に上棟を挙行したとある。(『鮎川村郷土誌稿本』参照)また本堂裏の墓地内(松田家墓地)に、寛永八年(1631)、寛永九年、慶安三年銘の一石五輪塔が祀られていることなどから、寛永年間には寺観が整っていたと推察することができる。また古くは山号を常吉山といわれていたが後に常喜山と改められたことがわかる。
「上富田町史 史料編下より」
観光