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特集記事

トルコ友好の町串本町、トルコとの歴史をご紹介。

2022.12.19

歴史

なぜ串本はトルコ友好の町なの?
ぜひ読んでいただきたい・・・ふか~~~い理由があるんです。
 
串本生まれ、串本育ちの編集部員がお届けします。
 

それは明治23年9月16日 和歌山県大島村樫野崎で起こった

 

いつもは静かな海も、台風で大荒れだった夜のこと…。
灯台守は何も起こらないことを願いながら、いつものように日誌を書いていた。

 

そこへ突然、今にも倒れそうな血だらけの外国人が助けを求め転がりこんできたのです!いきなりの出来事に驚きながらも、前夜末の暴風雨から付近で難破したことを察し、真夜中の町に協力を要請。

※助けを求めにきた樫野崎灯台

 

言葉が通じない彼に万国信号書を出し片言ながらもどこから来たのか?と問いかけると、彼は震える指でトルコの位置を指差した。
難破したのはトルコの軍艦エルトゥールル号であった。
日本とトルコの絆をつないだ物語|串本町
※エルトゥールル号の写真


要請を受け駆けつけた町民達が目にしたのは、海岸に溢れる多くの遭難者の姿…。
見たこともない外国人に戸惑いながらも、町民総出の救出活動を行い、69名の命を救うことができた。

 

町人たちは食糧もままならない中で自分達の蓄えである食糧を遭難者に与え、あり合わせの着物を着せ懸命に介護にあたった。
総勢587名の犠牲者を出したこの大きな事件は、翌朝、樫野の区長から大島村長に伝えられ、村長は神戸港の外国領事館に援助を求めて生存者を神戸の病院に搬送させるよう手配するとともに、県を通じて日本政府に通報した。

 

知らせを聞いた明治天皇は、政府として可能な限りの援助を行うよう指示した。
各新聞は衝撃的なニュースとして伝え、多くの義捐金・弔慰金が寄せられた。亡くなった人達は丁寧に葬られ、そして翌年の1891年1月2日にオスマン帝国の首都・イスタンブルに無事生存者全員送り届けられたのである。


※無事送り届けられた「金剛」「比叡」の乗員たち

後にエルトゥールル号事件と呼ばれ、帰国したトルコ人によってトルコ全土に伝えられた。

この事件をきっかけに日本とトルコ、和歌山県とトルコの友好関係が始まったのです。

 

この事件を題材にした絵本

 

タイヨウのくにとツキのふね

不自然な描写なく史実に基づいた要所を抑えつつフィクションで描くこちらの絵本。

 

もしかしたらこんな少年が救出劇に居たのかも。そう思わせられる”一人の少年目線”で物語は進みます。
トラウマを乗り越え異国の友人の為に成長し、夢を叶える主人公ヒノキチと一緒に読み手も成長できる絵本となっています。

 

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そして時は流れ95年、誰も当時を覚えていない頃

 
1985年イラン・イラク戦争勃発
現地在住の日本人含む外国人達は出国を急いでいた。

その時、当時のイラク・フセイン大統領から「48時間後以降にイラク上空を飛ぶ飛行機を全て撃ち落とす」と通告が有り、日本政府も救援機が出せずにいた。
 
「明日にも爆撃が始まるんじゃないか・・」
 
取り残された日本人215名全員が諦めかけたその時・・・突如トルコからの救援機がテヘランに降り立ち日本人を乗せ脱出する。

※テヘラン在留邦人を救ったトルコ航空機
 
しかも驚くべき事に現地にはトルコ人も大勢取り残されていたが、殆どのトルコ人は日本人を優先し救援機には乗らず陸路で脱出。
 
更にはトルコ国内からも批判はなく、むしろ「よくやった」という歓声があがったという。
 
この出来事に訳も分からず日本人達は皆
 
「なぜ?」
 
と思ったという。
 
当時の日本国内メディアでもなぜか分からず報道も混乱していた。
イラン・イラク戦争>テヘラン残留邦人脱出の真相を考える: 旅するデジカメ~プライベートノート札幌発
※事件当時の新聞記事
 
そしてあるメディアに当時の駐日トルコ大使がこう語った。
 
「我々はエルトゥールル号の恩を返しただけだ。」
 
 

これら一連の歴史を題材にした映画

 
海難1890

史実を忠実に再現し、故 安倍晋三 元総理が総監督をつとめた日本トルコ両国の共同制作映画。
そして串本・田嶋町長の大学時代の同級生である田中 光敏監督がメガホンをふるった。


※左:トルコ エルドアン大統領 右:故 安倍晋三 元総理

当時の大島村の生活様式もリアルに再現され、ロケ地串本ではエキストラに多数の町民も出演。
県内ではかなりの盛り上がりをみせた。

 

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—-まとめ—-

 
日本とトルコの友好は互いの震災時の救援や、文化交流などで今も続いている
 
如何でしたでしょうか。
 
ちなみにトルコには「Kushimoto Street」なる名前の通りがあったり、KUSHIMOTOを冠した名前のものや、トルコの震災で尽力して現地で亡くなった宮崎医師の名をとった「ミヤザキ森林公園」があったりと、時が経っても色褪せない「友」といえる関係が続いています。
 
トルコの子供達はこのエルトゥールル号遭難事件を学校で学んでいますから、トルコに行って「日本人だよ!」というと結構親切にしてくれますよ♪
※もちろん極一部の方ですが、それを逆手に取った悪質な客引きなども報告されていますので、トルコだけではなく海外旅行の際はくれぐれもご注意の程・・・